
初めに変化を感じたのは、畑の胡瓜でした。ひと時は、二、三日収穫し忘れると、とんでもない太さになり、食べきれないほどに生っていました。しかし黄色や茶の葉が目立ち始めたかと思ったら、実はならなくなり、枯れてしまいました。盆前くらいのことです。毎日のように猛暑日を記録した日々と気候はまるで変わらないのに、胡瓜の“時機”は過ぎたのです。 胡瓜の後を追ったのはトマト。初夏は雨が多くて、皮が破れてばかり。でも、晴天が続き、他の野菜や花木が枯れかけそうになる中、トマトだけは嘘のように数珠のように実をならし、赤くしてくれていました。どこからこの水分が来るのだろうと不思議になるくらい。それが8月の終わり頃、次第に実が続かなくなり、枝が黄褐色になっていきました。畑の土や作物たちは、まるで内からの声に従うように変化し、自らの視点で季節の移ろいを教えてくれます。 「今、確実に自由が狭まっていると感じる」。外国の話ではありません。夏の終わりあった講演会で、学習院大学の憲法学者が強調していました。国民の自由、平等、権利を守る立派な憲法を持ち、独裁者がいるわけでも紛争が起こっているわけでもない日本の現在の話です。でもなぜか頷けました。 彼女が指摘したのは、安倍政権の報道規制や自民党改憲草案の内容など国の権力に関することでした。私は日々の暮らしで感じます。生き生きと働く女性が増える一方で、男性の家事が増えるのではなく、冷凍食品や総菜があふれる。小さい子供を保育園に預けて、親の能力を活かすことも素晴らしいけれど、一日中子供の面倒を見ることでお互いが得られるものもある。どちらが優れているわけでもないと思います。なのに良くも悪くもひと頃に比べ、例えば冷凍食品ばかり購入することやしつけを外部化することなどに対する疑問の声が減った気がします。本来価値観は多様です。経済偏重の一元化の流れにうまく乗らされているように思えるのは気のせいでしょうか。 聞こえのいい一辺倒のフレーズに誤魔化されず、多数者の意見のみに惑わされず、自由な意思で心の内にしっかり耳を傾けたいものです。難しいけれど。(2016.9.7)。
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